本気の英語学習(3)古の秘術

「歴史探訪の旅、日本史ミステリーと英語の秘密」という題で、これまで2度に渡り、歴史を通して真の英語学習というものを考察して参りました。今回も、よろしければ、ぜひお付き合いください。

【マルキオン 笑瞑】
第三回は空海の行った修行法を、具体的にみていきます。
 
ただし、この「特殊」カテゴリーでは、大きな事情があって本当に英語を必要とされる方が、本気で英語学習をしたいという特殊な状況を想定した特別企画となっております。 堅苦しいものとなるかもしれませんが、読み物としても楽しめる内容となるよう努めました。管理人個人の意見を述べたものであり、内容の精確性は保証いたしかねます。
しゅっぱーつ!このまま下にスクロールしてね。
【霊歌】笑顔口開け

空海が行った求聞持法とはどういうものであったか、整理してみたい。

時に一沙門有り
虚空蔵求聞持法を呈示す

其の経に説く

若し人法に依りて此真言一百萬遍を読めば
即ち一切経法の文義の暗記を得ん
一たび耳目をふるるに文義ともに解す
これを心に記して永く永く遺忘することなし
諸余の福利無量無辺なり

是に於て大聖の誠言を信じ 
飛焔を鑽燧に望み
阿波國大瀧之獄によじ登り 
土佐國室戸之崎に勤念す

幽谷は聲に応じ
明星は影を来す

軽肥流水を看ては電幻の歎き忽ちに起こり
支離懸鶉を見ては因果の哀しみ休せず

目に触れて我を勸む
誰かよく風を係がん

ある者が、仏教の教えに従って、虚空蔵菩薩の真言を100万回唱えるならば、一度見聞きした外国語を瞬時に理解でき、なおかつ、なかなか忘れることが無い、という状態になる。これを信じて私(=空海)は休まずに修行した。という旨のことを言っている。

ここでいう阿波國大瀧之獄とは具体的には四国の山奥にある「捨て身岩」と大鍾乳洞「龍の窟(いわや)」という場所らしい

土佐國室戸之崎とは、室戸岬にある海蝕洞穴「御厨人窟」。

どちらも人里離れた秘境のような場所だが危険を伴う。

近士と成って名を無空とす
名山絶之処 嵯峨孤岸の原
遠然として独り向ひ 
淹留苦行す

或ひは阿波の大瀧嶽に上って修行し
或ひは土佐戸門崎に於て寂暫す

心に観ずるときは明星口に入り
虚空蔵の光明照し来て菩薩の威を現わし
仏法の無二を現ず

厥の苦節は則ち
厳冬の深雪には藤衣を被て精進の道をし
炎夏の極熱には穀を断絶して朝暮に懺悔すること
二十の年に及べり

ここで空海が言いたかったことは「なりふりを構わなかった」ということだろう。冬は重ね着が必要であるのに薄着だったこと、夏は夏でカロリーが必要なのに少食だったこと。これらは、苦しむこと自体が目的なのではなく、一心不乱に修行するなかで結果的にそうなっただけとも考えられる。

上記から「とにかく孤独な苦行だった」ということはひしひしと伝わってくるが、これだけでは具体的にどのような修行であったのかということは見えてこない。

そこで空海の言葉ではなく、密教に伝わる求聞持法から辿ってみることにする。


 行者は修行中他の請待を受けず、酒、鹽(しお)の入りたるものを食はず、惣じて悪い香りのするものは食はず、信心堅固にして、沐浴し、持斎生活し、妄語、疑惑、睡眠を少なくし、厳重には女人の調へたものを食はず、海草等も食はず、寝るに帯を解かず茸等食ふべからず、但し昆布だけは差し支えなしと云う、要するに婬と、無益な言語と、酒と疑心と睡眠と不浄食、韮大蒜(にらにんにく)等臭きものを厳禁せねばならぬ、浄衣は黄色を可とす。

空海が行ったものも、概ねこのようなものだっただろう。

沐浴、持斎といった聞きなれない言葉が出てくるが、沐浴とは体を清めることで、持斎とは言動を慎むことをいうらしい。

これを斎戒沐浴(沐浴斎戒)という。何か神聖なことをする前の鉄則とされる。すなわち、姿勢を正し、心を静めて深呼吸して、すべきことを減らして生活をシンプルにし、整理整頓や掃除、脱いだ衣服を畳むなどの日常の所作に気を配るということだ。

「女人の調へたものを食わず」とは「女性が(主人を喜ばせようとして)調理したものを食べない」ということで、現代流に言えば「外食を控える」ということになるだろうか。

「塩を食わず」とは、字義通りには「塩分を控える」ということだが、これは現代流に訳するならば「化学調味料を摂取しない」ということだろう。化学調味料とは、すなわちグルタミンナトリウムであり、一般に「調味料(アミノ酸等)」と表記される人工化合物である。学習障害やアトピー性皮膚炎などの要因という説もある。

にらニンニクは性欲を高めるとされており仏教では肉食とともに避けられる。キノコは何故禁じられているのか。

キノコは精神に悪い影響を与えると信じられていた。ただし(一部の毒キノコを除いて)シイタケなど食用キノコにそうした精神作用があることは科学的に認められていない。しかしユダヤ教でも古くからキノコは厳禁とされてきた。キノコには何かがあるのかもしれない。しかしキノコは肉食を避ける場合は貴重なたんぱく源であり、栄養が豊富である。にら、ニンニク同様、食べても差し支えのないように思われる。これらの要旨は「節食せよ、むやみやたらに食べ過ぎるな」ということなのではないか。

衣服の色が指定されていることは興味深い。近年、黄色は集中力を高める効果があると確かに言われている。

「寝るに帯を解かず」「睡眠を厳禁」という部分に関して、これは単に「就寝の直前まで修行し、また起床の直後から修行を始める」ということを述べたものであり、決して睡眠を軽視するものではない。

神経科学者の最新の研究によれば、睡眠時間が6時間の場合、認知能力が低下する。そしてここからが重要なのだが、それ以降いくら長時間寝ても、約10日間もの間、その失った認知能力が元の状態まで回復しないことが報告されている。これは恐るべきことだ。なぜなら認知能力の低下というのは、虚空蔵(ゲシュタルト)の形成においては、記憶力の低下以上に致命的な大問題となるからだ。記憶よりも認知の方が語学には重要であるということは、前の記事で述べたとおりである(ちなみに睡眠によって記憶能力も上がる)。

(ここでは言及されていないが、ウォーキングなどの日々の有酸素運動によって睡眠の質を高める、ということは認知能力の改善に欠かせない。)

上記から分かることは、

  • 飲酒(を初めとする依存性の高く健康に悪いもの)の禁止
  • 化学調味料を避け、外食しない。少食にする。
  • 堅く決心する
  • 姿勢を正し呼吸を深くする
  • 整理整頓や部屋の掃除を毎日小まめにする
  • すべきことを減らし、煩わしきを避け、生活のシンプルさを追求する
  • 早寝早起きを徹底し、夜更かしや惰眠を貪らない。
  • 被害妄想の自動思考を追わない
  • 余計なことをごちゃごちゃ考えずクリアな心を保つ
  • 諍(いさか)いなどで精神を散らさない。
  • 男女の交わりを避け禁欲的に過ごす

さらにこれに加えて、修行の場所として人気のない静かな所を指示している。これらの戒律によって心身を調整し、求聞持法の効果を何倍にも高めるのだろう。

そのうえで、次の修業を行うことが指示される。

一、
虚空蔵菩薩の真言100万遍を唱える
これにより一切の障碍が取り除かれるであろう

そして、次に二、三、四と、細かな作法が延々と続くわけだが、すべて省略する。というのも「一」以外の細かな規定は、本質ではないと考えるからだ。

たとえば、よく知られる「真言の100万遍は、100日以内に唱えなければならない」といった規定は、行として体裁を整えるために後付けされたものである。空海がこれらを行ったことを証明するものはない。空海作という規定書が伝わっているものの、真偽は定かでない。

そもそも密教とはその名の通り「秘密にされる教え」であり、同じ宗派にあっても、ある知識が一部の弟子にのみ伝えられるということは珍しくなかった。禅問答のように、知識が抽象的な方便として暗号化されることもあった。(弾圧を避けるため?)

求聞持法も同様に、その正確な修行法がそのままの形で伝えられなかったとしても不思議はない。また、求聞持法は、戒律を破った僧侶に対する懲罰的な意味で用いられることも多かったので、様々な修正があったことは想像に難くない。

第一、「行法通りの作法でなくとも最低限『一』を守れば功徳は得られる」と、儀軌自体にも明記されている。このことから二以降は後付けで、一こそが元々の内容に最も近いものであると考えらえる。

したがって、私たちに「語学に応用する」という目的がある以上、「二」以降の宗教的に細かな規定は、ここでは割愛する。(※ただし、宗教的であるからといって有用ではないとは限らない。「二」以降で述べられる宗教的な規定、たとえば「月輪観」などは、エンドルフィンを分泌させたり血圧を安定化させたりと様々な生理的作用が実際に起こるのであり、その可能性は未知数である。興味のある方はネット検索や書籍などで調べてみてもよいかもしれない)

さて、この「一、虚空蔵菩薩の真言100万遍を唱える。これにより一切の障碍が取り除かれるであろう。」であるが、

ここで1つ異説を述べたい。

これさえも、実は後世による宗教的な脚色、あるいは空海自身による誇大表現であったとは考えられないだろうか。勿論、伝承には一定の真実が含まれることに疑いはない。しかし、空海が行った求聞持法とは、本当にただ呪文を唱えるだけのものだったのだろうか。

というのは、伝承通りなら、空海は求聞持法を納めた後、明らかに語学力が向上している。とすれば、その修行法は言語習得に直接的に関係するもののはずである。

けれども、求聞持法が人間の記憶力や読解力自体を向上させるものではないことは、前の記事で既に述べた。

一説によれば求聞持法は脳のデフラグ(不要なデータの削除)を行い、記憶容量を増やす効果があるともいわれる。だが、それだけは外国語が習得できることの理由にはならない。人間の脳の容量はもともと膨大であるからだ。

ならば、

求聞持法→記憶力向上→外国語ペラペラ、という図式ではなく、求聞持法→外国語向上、という流れだった可能性はないか。

外国語それ自体を学ばずして、1つの呪文を繰り返し詠唱し続けるだけで外国語に熟達する等と言うことはありえない。

しかし、そうした現象が歴史上確認されていないわけでもない。

真性異言(ゼノグロッシア)というものがある。学んだことのない言語が、いつの間にかペラペラになっているという超自然現象だ。オカルティズムのなかで扱われることがあるが、これは科学者によって研究されている分野でもあり、そのすべてが疑似科学というわけではない。まさに空海にはこの現象が起こったということになる。しかし真性異言とされるものの多くは、朗唱型異言とよばれるカタコトの言語能力であり、それは退行催眠下における過去の記憶の単純なリピート再生でしかない。本人は学んだことがないと思っていても、実は以前に見聞きした情報が無意識にあって、何かのきっかけで無意識が露出することで、その記憶がフラッシュバックされているに過ぎない。

だから、まともな意思疎通ができるほどの言語能力ではない。

たとえば、アフリカの奥地にある集落で、先住民が突然、日本語で「犬で歌った誰の、遊ぶこと三日月」と喋り出したら、周囲の人々は、その人が日本語ペラペラであるとして驚愕するだろう。しかし、実際に何を喋っていたのかということを考えると、それはただの手品である。昔、村を訪れたNPOの日本人の言葉を、断片的に覚えていて、薬物によって恍惚状態が訪れた際に無意識が露出し、その記憶が忠実に再生されたものでしかない。空海が得たという語学力は、この程度のものだったのだろうか。空海に起こった現象は、この朗唱型異言であったのだろうか。

そうではなかったと管理人は考える。空海は中国に留学し、日本人の中では唯一、インドの高僧から直接指導を受け、その知識を日本に伝えた。これらのことは外国語に長けなければ困難だ。

また、この前提に立つことで、空海が手にしたという「絶大な記憶力と読解力」というものを容易に説明できる。

もし、それが「広義における全般的な学習能力」のことではなく、「ある特定の外国語における記憶力と読解力」を意味しているとすると、空海に起こったことがすんなりと理解できるのだ。どういうことかというと、

たとえば「いつやるの?いまでしょ!」という日本の流行語を、日本語で暗記しなければならないとする。あるいは「日米修好通商条約」という言葉でもいい。このとき、日本人と欧米人、果たしてどちらか、その言葉を暗記しやすいだろうか?

当然、日本人だ。なぜなら、日本人は日本語に長けるからだ。日本人が一度読んだり耳にした日本語は、欧米人よりも記憶に残りやすく、またその意味を瞬時に理解できる。ある言語の特定の文言が覚えやすく、また理解しやすいということは、その言語に習熟していることを強く示唆する。

これは音のメロディーに対する再現能力の高い者が音感に優れていることと同じだ。

囲碁の棋士が、あらゆる対局の棋譜を再現できるのに、夕食のメニューを思い出すことには苦労することと同じだ。

空海の突然の記憶力と読解力の向上は、かなり限定的なものであっただろう(精確にはそれは読解力や記憶力ではない、ということは前回の記事で既に述べた)。「外国語という特定分野における虚空蔵(ゲシュタルト)」を空海は手にしたのではなかったか。

求聞持法は、空海の外国語能力を高めた。それはつまり、その修行内容は語学に直接関連するものだった。もちろん、伝承がすべて誤りというわけではないだろう。空海にしても、批判的思考(クリティカルシンキング)を越えたところで、仏教に敬意を払っていた。空海が、虚空蔵菩薩を本尊とし、その真言(呪文)を唱えるということを求聞持法のなかで実行したことは明らかだ。

ただし、先述のとおり、それは語学用に特別にアレンジされた、というのが、管理人の結論である。どのようなアレンジであったか。

そのヒントとなるのが、空海の次の言葉だ。

「宇宙に鳴り響いている宇宙原音の波動に意識を合わせた者は、その音を直ちに理解できる言葉として聞くことが出来る」

これは、密教の「阿字声字実相」という思想から影響を受けた発想だろう。密教ではサンスクリット語を神聖なものとして扱う。何故かというと、この世の全ての本質が、「不生不滅(始まりもなく終わりもない)」であり、虚空であるということを、言語というものが象徴していると考えるからである。

新約聖書でも「はじめに言葉ありき という一説があるが、東洋思想でそれに対応するのが、この「五大に響きあり、十界に言語を具す」という「阿字声字実相」になる。

これはよく見ると、「まず初めに言語があって、そして宇宙の万物に響きが発生する」とは言っていないということに注意だ。順番を読み違えてはならない。

洋の東西を問わず、「響き」すなわち「波動」、「音」が先だとしている。

密教では外国語の経典に「字形」「字音」「字義」があるとするが、このうち、その言葉の音声を重視するのが「阿息観」、字形を重視するのが「阿字形相観」、音声を重視せずに字義を重視するのが「阿字観」である。

これを現代日本における英語学習に置き換えると、「字形」「字音」「字義」とは、それぞれ「単語のスペルや英作文」「リスニング」「文法や語源などの知識や速読・長文読解」に完全に対応している。

このことから、僧侶たちは私たち現代人同様、外国語学習に困っていて、その学習法をいくつも考察してきたということが読み取れる。

このなかで、求聞持法とはどのタイプのものであったか。

「~日以内に、真言(=外国語)を~回唱える」

これは誰がどう見ても明らかに「阿息観」すなわち「言葉の音声を重視する」性質のものである。つまり現代流に言えば「リスニングと音読」ということになる。(阿息観も字形や字義を完全に無視したわけではなかったが、もっとも重視されていたのは音だった)

▲引きこもることで得られるものがある

密教では「マントラの意味(字義)に思いを馳せることを禁ずる」とされる。このことも密教が複数の学習法のなかで特に阿息観を重視していたことを示唆しており、これはつまり「外国語を学ぶときは、その言葉の意味に囚われずに、とにかく音読したりリスニングすることが大事である」と言っているに等しい。平安時代にCDプレイヤーなど存在しないから、ネイティブから直接話しかけられるということを除きリスニングは不可能だった。だから空海はまず洞窟に引きこもって日本語を遮断し、真言に代表される外国語を自分自身で音読することで、疑似的なリスニング環境を作った。それが、空海の行った求聞持法なのではないか。それによって「宇宙創造の原音に波長を合わせる」すなわち「外国語の周波数に日本語の周波数チャンネルを合わせる」ことを実現した。

しかし、ここで終わりではない。空海はそのうえで中国・インドに留学し、自分の中にできた「外国語の脳波」を、状況から「言葉の意味」と結びつけるという作業をした。これによって「虚空蔵(ゲシュタルト)」がうまれた。

明らかに、音声のみの長時間リスニングだけでゲシュタルトを構築することはムリだ。TSUTAYA・GEOどころか、海外ドラマもDVDプレイヤーも存在しない平安時代にあっては、外国語の原音(キー)の調整に加えて留学が必須だったのであり、このことによって空海の求聞持法は正式に完成したのだろう。

したがって、客観的議論として、100日間の修行を終え御厨人窟から出たばかりの空海は、実際、先述の「真性異言(ゼノグロッシア)」における「朗誦型異言」の状態であっただろう。つまりその時点では、「歌う田園の歩いた眠りが」のように、支離滅裂な言葉の一方的な呟きでしかなかった。もっともそれは、周囲の日本人からすれば、外国語ペラペラであるように聴こえたことだろう。当時、中国語やインド語の素養があった日本人は皆無だったため、どのような支離滅裂な言葉も一般人からすれば高尚なものに聞こえてくる。手品には種があるように、この時点での空海の言語能力はただの見掛け倒しだった。しかし御厨人窟での修業によって、空海の脳内のなかにはすでに「外国語の周波数」が完成されていたのだろう。音楽家に喩えるならば、「音楽理論を知らず楽器も演奏できず楽譜は読めないが、相対音感だけは研ぎ澄まされている」という状態である。そうであるならば、そこからの没入法(留学等)による外国語の吸収力は通常の留学生よりも圧倒的であったということは想像に難くないし、それは傍から見れば「圧倒的な記憶力と読解力」と錯覚することになる。以上が、空海の求聞持法における私の仮説である。

空海は宗教的な人間であった。

しかしそれは、彼自身の論理的な判断能力の大小とは関係が無い。人間というものは全て、論理的に十分納得した後で、何かを実行するのではない。まず信じて、その信念を拠り所にすることによって、人間は生きている。それはある宗教を信仰しているかどうかということとは関係がなく、万人にあてはまる真実だ。敬虔な信徒であれ無神論者であれ、私たちは全て、生まれながらにして、宗教的である。

ただそれに気づいて内面を掘り下げるか、それとも見て見ぬふりをするか、という違いがあるだけだ。自己の本質が宗教的である以上、無意識に人は宗教的思考をする。それが体系的で、統制のとれたものならばよいが、時に人はその内面の統合に失敗する。それが人間本来の利己的な本性と結びついた時に、犯罪や自殺、いじめ、パワハラ、嫌がらせ、不品行などを人は行う。宗教の信仰は、(時と場合にもよるが、)そういったことに、ある程度の歯止めをかける効果はあるだろう。よって、論理的に説明がつかないからといって何でも頭ごなしに否定すればよいというものではない。信仰とは、本来は人の営みと切り離せないものだ。空海もまた仏教に敬意を払い、その理想を敬い、虚空蔵菩薩を本尊とし、その真言(呪文)を唱えるということを求聞持法のなかで実行した。

その直向きな姿勢を、宗教として切り捨て、その成果を「作り話」と見なすことは憚られた。そうした思いで「求聞持法」について考察したところ、現代の英語学習との意外な関連性を見出したのだった。

私は仏教に関し素人であり、空海のことも求聞持法のことも詳しくは分からない。だが1つ確かなことがある。空海は、求聞持法(=外国語学習)を自他の魂の救済という手段として捉えた。ペラペラになってからも、他者のために、世界のために尽くした。宗教や思想がどうあれ、その理想自体は高尚なものである。

それに、宗教で言われている通りのことを実際に試してみたら物事がうまくいった、という話を耳にすることがある。今回の場合も、その宗教的な性質の中に、意外な科学性を見いだせる。

1、人は信仰によって脳内麻薬物質(エンドルフィン等)が分泌される。これが心身の苦痛を和らげ恍惚感や陶酔感をもたらす。空海は、語学と信仰を結びつけることによって、語学に対するモチベーションを驚異的に高めた。

2、「真言百万遍」という求聞持法のハードな内容も、ランナーズ・ハイならぬワーカーズ・ハイ(仕事中毒)の状態を導く。空海はこの効果を得ることによって、語学すること自体によって脳内麻薬が分泌されるようになった。

3、空海が求聞持法を行った場所の1つ、徳島県の鍾乳洞「竜の窟」に関して、その地域周辺では当時、水害による作物への被害が甚大であった。空海は単に自己実現のためのみならず、こうした災害に苦しむ庶民のための祈祷としても求聞持法を利用した。なぜならそのような利他行為(慈悲)は、宗教上の教えであったからだ。つまり空海にとって、求聞持法は語学修行であると同時に、壮大なボランティアでもあった。その結果、空海には2つのことが起こった。1つめは集中力の強化だ。ただでさえ農民は飢えているのに、これ以上の災害は彼らの深刻な飢餓を招く。それだけに、求聞持法の挫折は選択肢になく、後に引けない状況をつくった。そしてそれは脳内のアドレナリンとドーパミンを大量分泌させ、強力な追い込み効果として機能する。そしてもう1つは、村人たちが求聞持法の修業を手助けしてくれたことだ。ゲーム理論では利他行為は不利になる。しかし、空海は宗教の教えにしたがって村人を助けたことで、村人からも施しを受け、結果的に求聞持法の成功率が上がった。

空海はこのように、宗教の教え通りの修業をして、それが結果的に、科学的で最大効率の訓練となった。
このように、過去に宗教で説かれていたことが後世になって科学的に証明されるということがある。このことからも、古代から存在する宗教というものには一定の真実が内包されており、なかなか侮れないものだと思う。

一方、現代においては虚空蔵菩薩が単なる受験祈願のために「神頼み」されたり、求聞持法が脳トレとして扱われる。

外国語は理想と切り離され、ただTOEICでスキルアップして転職しようとか海外で自由を満喫しようというような軽いものとして扱われる。

空海にとって、外国語学習は祈りや理想と結びつき、命をかけるに値するものだった。

そこには現代日本人との埋めようのない「温度差」がある。これは何も、信仰心の差のことではない。もっと根源的な、人生や物事に対する真剣さ、直向きさ、光と闇のコントラスト、内面的掘り下げの差がそこにはある。当時の空海をみて、現代日本人はこう思うだろう、

「うわ、ちょっと『引く』なぁ~。そこまでするか普通?だいたい、論理的に考えてオカシイでしょ」と。

しかし、そのくらいの狂気や真剣さがないと、精神的にも物質的にも、大きな仕事は成しえないのではないだろうか。現代日本人は、冷めている。こころが冷え性だ。冷え性であることと、客観的であることは同じではない。それは経営サイドからすれば都合がよく、大量消費大量生産という戦後の都合で作られた人格でしかない。管理人自身を含めて、現代は1億総「離人症」社会になりつつある。そして自分が無神論であることや、周りと同じような無難な言動をとるということが、理性的で論理的なことであることであるかのように錯覚している。

宗教・宗派・思想などに関係なく、空海の「心の温度の高さ」に畏敬の念を抱かずにはいられない。その温度とは、熱に浮かれた無秩序な陶酔とは違い、自然と調和し、静謐な意志を纏ったものだろう。

私たちは、社会の問題を解決し自らの生命力を高めるためにも、今一度、心の温度を上げるべきなのかもしれない。何かの宗教を必ず信仰しなければならない、とは思わない。ただ、少なくとも私たちは、批判的思考を越えたところに理想と希望を持たなければならない。そのことに感情エネルギーをバイパスしなければならない。そのうえで直向きに努力し全力を出しきる時、そこに奇跡というものが宿るのだろう。

ここまでが、管理人が求聞持法の歴史から読み取れたことである。

以上、ここまで、私たちは歴史のミステリーを探検し、そしていま「外国語を習得する特別な方法がある」という結論に辿り着いた。

ここでようやく私たちは、次の議題に移ることができる。

すなわち、

「もっと現代的にいって、具体的にどういう訓練か」

ということである。

それを次の記事で考察したい。

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