「歴史探訪の旅、日本史ミステリーと英語の秘密」という題で、これから何回かに渡って、歴史を通して真の英語学習というものを考察していきたいと思います。よろしければ、ぜひお付き合いください。
空海の修した行の正式名称は「虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法(以後、求聞持法と略する)」という。密教以前に古くから伝わる儀軌に、密教独自の修業法を組み合わせたものである。
この行の効果としては
「一度見聞きした経典は、その意味を理解することができ、永く忘れることが無い」というものであり、虚空蔵菩薩は記憶力増進を求める人々の間で広く信仰されている。俗に「膨大な知識の記憶」が1つの目標とされる。
しかし、もともとの儀軌の教えは次のようになっている。
「常にこの陀羅尼を唱える者は、無始の過去よりこれまで犯してきた一切の罪業が悉く消滅して、常に一切の菩薩に守護される。そして未だ成仏せずに生まれた世界では虚空蔵菩薩が守護し、願いは満足しないことは無く一切の苦しみは消滅し、うまれるところは天界か人界で、悪界にうまれることはない。日頃からこの真言を唱える者、こうした功徳を得る」
「もろもろの闇を離れて光明を得、他によらずに自然に智を得る」
等のことが説かれている。
ここからは、求聞持法による本当の効果は、何かを記憶することではなく、別の何かであるということが読み取れる。
しかし、実際に空海は「絶大な記憶力と読解力」を得たという逸話が残っており、日蓮もまた、これによってそうした能力が伸びたという旨のことを言っている。
このことは、何を意味するのか。つまり、求聞持法は本来的に記憶力や読解力を増進させるものではない。しかし結果的に、そうした学力が伸びたかのように他者からは見える、ということになる。「他によらず自然に智を得る」ということと「記憶力が向上する」はイコールではないからだ。
記憶力そのものは向上しないのに、対象を自在に想起することが可能で、読解力そのものは向上しないのに、対象の意味を自在につかみ取ることができるとするならば、
それは一体、どのようなプロセスによるものなのか。
このことを理解するには、この求聞持法で本尊とされ信仰の対象となる、虚空蔵菩薩について考える必要があると思われる。
虚空蔵の由来については、次のように伝えられている。
「虚空という無限の世界に蔵されている福智であり、喩え一切の衆生を利楽し、蔵より無量の法宝を引き出し、自在に活用したうえでも窮することが無きゆえに、虚空蔵という。」
この「蔵(ぞう)」とは「蔵(くら)」のことであり、何かを蓄える場所である。要するに、蔵が財産で一杯であるならば、その中の幾らかを誰かに分け与えても、決して貧しくはならない、という旨のことを言っている。
つまり、ここで述べられているのは「無限」という概念である。無限から引き算しても無限のままだ。この無限の状態を虚空と表現している。数直線上に無数の数があるように、虚空の世界にも、数限りない智慧があるということだ。
そしてその智慧とは、1つ1つの智慧の合計ではありえないだろう。
なぜなら、1つ1つの数をいくら足しても、それは有限であり、決して無限大(=虚空蔵)にはなりえない。つまり虚空界には、知識を1つ1つ暗記し、それを積み重ねるというプロセスによっては辿り着けない。
無限とは特定の値ではなく、「状態」だからである。
1つ1つの数の合計ではないのであれば、それはいくら引き算しても失われないということだ。つまり、いくら、個別の知識を忘却(=引き算)したところで、消えることのない認識を備えた状態、ということになる。
この状態が「虚空蔵」なのであり、この虚空蔵から智慧を自在に引き出して、慈悲を施す菩薩が「虚空蔵菩薩」である。そしてその菩薩のように、地獄の世界から自分自身や他の誰かを救済していくことが、密教における求聞持法の目標であったと考えられる。
これに似た概念として、アカシックレコードというものがある。
これは神秘学(形而上学)で有名なもので、それによれば、宇宙には、時空を超えて、あらゆるものの記憶が保存されているとする。霊能力者等が、超能力を使ってその貯蔵庫に自らの意識を同調することで、ある人間の過去や未来を読み取ることができるとされる。これは仏教における虚空蔵の概念と酷似しているが、それは当然であり、そもそもアカシックレコードとは仏教の概念を西洋的に表現したものに過ぎないからである。アカシックという言葉も、虚空蔵菩薩を意味する梵語「アキャシャケバヤ」に由来する。
しかし、虚空蔵という深淵な概念も、こうして西洋的に表現してしまうと妙に安っぽく感じてしまう。文化とは移植したときに変質するのではないだろうか。東洋から生まれたものを西洋の価値観に変換すると、失われるものがある。その逆もまた然りだ。アカシックレコードという概念は虚空蔵とは似て非なるものであり、疑似科学としての底の浅さを感じずにはいられない。仏教は仏教として、虚空蔵は虚空蔵として捉えることでしか、その本質的な概念を認識することはできないように思う。
西洋側にも、それに類する概念がある。たとえば「集合的無意識」や「ゲシュタルト」「宇宙霊魂」といったものが挙げられる。
集合的無意識とは、ある集団の構成員が、個人の知識や経験に寄らずに互いに共有している知識体系。ゲシュタルトは個々の知識の総和では説明のつかない、論理を越えた認識体系。宇宙霊魂は宇宙全体がたた1つの生物であるという考え(ガイア理論など)。
これは全て、東洋の虚空蔵の概念と本質的に重なるのではないか。これらを個別に考察することはここでは避ける。
要するに、古今東西を問わず、「知識を越えた知識」、いわば「超知識」とでもいうべき存在が、人類によって確かに確認されているのだ。求聞持法を、単なる一宗教の信仰に過ぎないとして切り捨てるのは早計である。宗教・宗派を問わず、そこから何か価値あるものを見いだせるかもしれない。
以上を踏まえて、なぜ求聞持法を修すると諸々の学力が向上するのか、ということに話を戻そう。求聞持法は、「記憶力そのものは向上しないのに、対象を自在に想起することが可能で、読解力そのものは向上しないのに、対象の意味を自在につかみ取ることができる」というものであった。
これは虚空蔵の性質を考えればすんなりと理解できる。
それは、個別に積み重ねられた情報の量ではない。頭の中の知識が多いとか少ないとか、そういうことではない。それは情報の状態であり空間のことである。すなわち、その者は、最初から何かを暗記していない。何も覚えていないのだ。覚えていないものを、忘れることができるはずもない。
それが「空間」である限り、そのなかの1つ1つの入ってきた情報を忘れたところで、その空間自体(=虚空蔵)は影響を受けない。
芸術家が、作品を無から創造するように、個別に知識を暗記せずとも、「無限の抽象空間」がそこに完成しているならば、無尽蔵に知識が湧き上がってくるのだ。つまり、「全ての智慧が完璧に保存されている、無限大の貯蔵庫(=虚空蔵)に、自在にアクセスできる力」こそが、求聞持法によって得られる力ということになる。
そのような力があるならば、ある特定の知識を自在に頭の中から引き出したり、文言の意味を自在に把握できるのは当然であるし、それは傍からみれば、暗記力や読解力が高いように錯覚してしまうことも理解できる。
これと同じことが乳幼児にも起こっているのではないか。母語習得の過程では幼児の記憶力や集中力ばかりが注目されがちだが、実は幼児は最初に「虚空界」を作るのであり、記憶力はそのための補佐的な役割を果たすに過ぎないのではないか。傍らで観察していて分かることは、幼児は2歳の時点でかなりの言語能力を示す。高度な知能も知識もない状態から、自然な文法をつかう。2歳児の「これ見て、刺さった、血ィ出た」という一文には、命令形、過去形が含まれているが、知識や論理的演繹によってそうした認識体系が生み出されたとは考えにくい。傍らで乳幼児を観察していて、管理人は次の結論に至った。そこには、論理や知識(記憶)といったものを吸い込んでしまう、ある種の「空間」の存在があるのだと。
このことから、私たちは、最初の前提から誤っていたのだと認めざるを得ない。そもそも、覚えたものを忘れない、などということは、最初から不可能なのだ。知識として覚えたものは、やがて忘れる。それが自然の摂理だ。求聞持法を成就した者であっても、それは同じだ。彼らは忘れる。だからチェスのチャンピオンは、一度見たあらゆるチェスの棋譜を再現できるのに、会場に向かうタクシーの中に帽子を忘れるのだろう。(自然界にはストロボカメラのように完全記憶能力を持つ生物も確かに存在する。そういう人間も確かにいる。しかしそれは特異な例であり、求聞持法とは関係が無い。そのような者が求聞持法を発明する必要はなかったはずだからだ)
しかし、知識として覚えなかったものは、当然、忘れることがない。それはちょうど、日本人が、日本語を忘れることができないのと同じである。流行語や歴史の年号は忘れるかもしれないが、それは一度見れば、またすぐに覚えることができる。日本語の土台があれば、その上に何かを知識として積み上げるということは、外国人がそうするよりも容易である。
またその状態では、何かを意識せずとも、自然と色々な言葉を吸収していく「吸引作用」が働く。「骨粗鬆症」「面目ない」「眷属(けんぞく)」といった言葉を、我々はいつの間にか覚えているのだ。
これと全く同じ現象が自然界にもある。
ブラックホールだ。ブラックホールの中心には、無がある。どうやら絶対的な抽象(=無)は、あらゆる具象(=有限)を飲み込もうとする性質があるようだ。
論理的な説明付けや知識は、抽象の対極にあるものだ。それはむしろ、抽象空間を崩壊させてしまう。ゲシュタルト崩壊という言葉でおなじみのアレだ。頭で考えようとすると、「それ」はむしろ崩壊していく。「公」という字を考えすぎると、もうそれは「ハム」にしか見えなくなる。すなわち、「文法、単語帳、長文読解、英作文あるいは語源や語呂合わせ」といったものを幾ら訓練しても、英語は(本当の意味で)喋れるようにならないということが演繹できる。ただし勿論それは、抽象ができたうえでの具象を否定するものではない。
この抽象空間(虚空界、ゲシュタルト空間)に入る、すなわち、「虚空蔵菩薩に求聞持法を受け入れてもらう」ということが重要になる。
それは、自分の中に無を作るということになるのだろう。無である以上、そこに意味はなく、記憶もない。そこには何もなく、ただ虚空の世界が広がっている。この虚空の中に、意味や記憶が吸い込まれて後付けされる。順番が逆だったのだ。
このなかに、日本人が英語を考える際の核心があるのかもしれない。
ここまで、雑学に失した感があるが、空海の求聞持法は、虚空世界(の一領域)にアクセスすることを可能にすること、そしてそれは、日本人が英語を学ぶ上でも応用できる余地があるということを述べてきた。それでは、古の修行僧が実践したこの求聞持法とは、一体どのような修行だったのか。そしてそれを語学としてどう応用することができるか。次の記事で考えていきたい。
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